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erikumakoの独りごと

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ある日突然、病に襲われ、障害者に。でも、毎日必死に生きています。そして、一国一城の主!そんな私の心の中を自由に表現しています。

こんにちは! erikumakoです(*^^)v


このblogを書くのは、約4か月ぶり。
昨年の10月24日から60日間、入院していました。クリスマス前に退院して、痛みやしびれがひどいのは、相変わらずでしたが、気持ちの面でも、パソコンに向かう気にもなれず、入院前には、痛くてもしていたこともやる気が起きない。特にダラダラとした生活をしていたわけでもないけれど、「何かをしよう!」という気持ちがわいてこない。だから、痛みやしびれと真正面から向き合ってしまうので、尚更、体が言うことを聞かずに、引きこもりのような状態になってしまっていた。
最近になってようやく、パソコンを開いてみたり、部屋の片づけなどできる範囲で「やんなきゃ!」と感じ始めるようになった。

約4か月ぶりにblogを更新するにあたり、引き続き「闘病記」について書こうかなとも思ったが、10月24日から60日間の入院でつくづく実感したことを聞いてほしいと思い、今回は「番外編」として、その60日間についての私の感じたことを聞いてほしい。こういうことって、どこのリハビリ病院でも同じなのか?と、問いたいから・・・。


院長交代の影響か、よくある病院の人事異動で私の主治医は、脳神経外科の医師だったが、まぁ、主治医のような先生ではあったが、リハビリテーション科の医師に引き継がれた。引き継がれてから初めての入院。私にはもう一人、麻酔科のM医師も主治医のような存在だった。前主治医の人事騒動(後日記載予定)もあり、2か月おきくらいに入退院を繰り返していたのに前回の退院から1年以上経過していた。外来でブロック注射などしていたものの、痛みとしびれが増すばかりの1年だった。私には ”限界”が見えないから、どこまで階段を上り続けていくんだ!そんな状態だった。
主治医が変わり、新しい主治医O医師からも、麻酔科のM医師からも、早々に入院の日取りを決めようという話が出た。
病棟も脳神経外科病棟からリハビリテーション病棟に変わる。数年前、脳神経外科の都合でリハビリテーション病棟に2~3回入院したことがあった。その時の印象は、病棟全体が明るい雰囲気でナースもナースとしての優しさをもち、誰が担当になってもいいな!と感じるほどだった。今回もそのつもりで入院生活をスタートさせた。

部屋に案内され、ナースステーションの隣・・・これは、車いすになりその他のこともその他のことも数年前とは、まったく自分自身の状態が変化しているから仕方がないと思った。ベッドに貼ってある担当看護師の名前を見たら、脳神経外科病棟で主任をしていた人だった。ほかの患者さんは、みんな“怖いと嫌っていたが、なぜか私とは気が合っていた人だったので安心した。”主任”というポストにいた人ということも私を安心させた。
しかし、入院当日は、(実は、それ以降もだったが・・・)残念なことに、その主任の元で勉強中の2年生ナースだった。検温だの問診だのお決まりのことをしている中で、よく言われる「痛みの段階」を聞かれた。前の病院も、脳神経外科病棟でも、1~5で、「5」は、泣き叫ぶほど、死んでしまいたいほどの痛みのレベルとナースは、判断していた。私自身も仕事上、そう認識していた。そういった意味で「5」は、数多く経験していたので、聞かれた時点の痛みの度合いは・・・「2」と答えた。それを聞いた2年生ナースFさんは、「あ~じゃぁ、あんまり痛くないんだ!」と言った。私は、唖然とした。ここで何か言わなければ、私は、”そんなに痛みのない人”にされてしまう。「だって、嫌というほど、”痛い”と言えないほどの苦痛を何度も経験しているから、それと比較したら、今は2くらい。だって、5は、死にたくなるような下見のことでしょ?」と聞き返した。ナースFは、首を傾げていた。

入院して二日目の晩、私に褥瘡ができていたので、体位変換で消灯の22時から2時間おきに、ナースが三角枕を左右入れ替えに来る。この病棟は、3交代制で8時半~16時半、16時半~午前零時、午前零時~前日の日勤のナースに戻るというシフトだった。2交代目・3交代目は、ナースが2人になる。入院して早々にいや~な感じのナースが担当になった。常に上から目線で患者への思いやりを全く感じなかった。そのナースOさんが、午前2時の体位変換に来た。私の左腕を握りしめ、持ち上げるようにした。「痛い!やめて!」思わず私は、叫んだ。しかし、握りしめられた左腕は放されることもなく、「ほら、向きを変えて!」といわれた。よろめきながら、必死にベッドの柵を手首に引っ掛けるようにして、起き上がり掴まれている左腕を払った。それこそ「5」の痛みとしびれ。ベッドの柵にもたれかかりながら、言葉も出ずにうなり声だけで固まっていた。そのうちにベッドからも落ちそうになった。そのあとすぐに浴びせられた言葉は「何がしたいのよ!車いすに移動したいの?何しているのよ!も~面倒くさいな~」だった。ヘルパーの男性もOさんと一緒に来ていたので、その人が、ベッドから落ちそうになった私を支えて、車いすに移動させてくれた。そして2人は去っていった。私を車いすに乗せたままどうするつもりだったのかわからないが、私はその場にいることも嫌で、部屋を出て、救急外来出入り口から外へ出た。外の空気が吸いたかった。外に出るには、守衛室の前を通らなければならない。守衛さんとは親しくなってはいたが、私の様子を変に感じたのか、出るときには午前2時過ぎという時間にもかかわらず何も言わなかった。部屋にいないことを逆手にとって、そのナースに探されあれこれ言われるのが嫌だったので、10分くらいして院内に戻った。その時に守衛さんが、「どうした?」。
一通りのことをざっくり話した。「痛いのはつらいよね。でも、その辛さをわかってくれないのは、もっと辛いよね。まだ、入院が始まったばかりだけど、負けないで。辛いときにはここに話に来てもいいから」と言ってくれた。その守衛さんの言葉が、とても暖かく感じ、この言葉をナースが言わなきゃダメなんでしょ!と、強く感じた。

ある朝の朝食後、薬が待てど暮らせど来ない。その日に限って体中が痛い。とにかく痛い。夜勤のナースにとって朝食後が一番多忙なことも知っていた。

迷いに迷った挙句、ナースコールをした。 看護助手が来た。「あら~!まだ来てないの?言っておくね」といいながら、足早に去っていった。しかし、待てど暮らせど来ない。再度、コールした。15分以上してようやく、2年生ナースFが来た。入口にふてくされて立っていた。私は、痛いから、「あ~やっと来てくれた!待っていたよ」と、安心した気持ちで言った。薬をカップにあけてくれるのだが、だんまりで面倒くさそうな手つきだった。体が痛いこともあったが、さすがにイラっとしてきて「そんな、黙っていることはないじゃないですか?痛くて仕方なくどうしようもなかった、患者の立場にもなってみてよ!”ごめんね~遅くなっちゃって”ってくらい、言ってくれてもいいんじゃないの?”と、言ってしまった。

「仕方ないでしょ!看護師が足らないのよ」続けて、薬が乗っているワゴンを指さしながら”こんだけ、薬を待っている人がいるのよ。あなたが最優先じゃないの!」私の部屋は4人部屋だが、みんな痴呆症の患者さん。大声でそう、一気にまくし立ててきた。呆気にとられたが、「看護師不足は、今ここでの問題に関係ないでしょ?」といったら、「ほかの部屋で間違えて患者さんが違う薬を飲んでしまって、副作用は大丈夫かとか先生や薬剤師と話し合っていたのよ!も~看護長を呼んでくる!”・・・おいおい、何があったか知らないが、看護長をわざわざ呼んでくる話じゃないだろう!

私は、一方的なことを看護長に言われても困るので後を追った。看護長は、まだ文句の言い足りないFに対し、黙りなさい!というように、抑圧していた。謝りなさいと、Fに言い、「すみませんでした」と、口先だけの謝罪に私には聞こえたが、事を大きくしたくないし、明日には主任が出勤してくるから、そっちに直接言った方がいいと思った。

翌日になり、主任に「昨日のこと、聞いた?」と言ったら、本当かどうか不明だが「昨日のことって?何かあったの?」と答えた。一通り話、主任は仕事に戻ったがそこにFがそばに来た。「まだ怒っているの?」と。呆れかえってしまった。「主任に何も話していないじゃない」「だって、恥ずかしいから」・・・バカ言え!心の中でそう思った。「あなたは、私より若いし病的に痛みやしびれもないしわからないのも仕方がないけど、歳を重ねていく中で、そういったものに悩まされ魘されたときに、”あ~あの患者さんは、こんなに辛かったんだ”って思い出してくれたら嬉しいよ。7年も8年もこんな生活を送り、どんどん悪くなる一方。痛くてたまらない、でも私には、頓服っていうものがないんだよ。でもね、”痛いのか、辛いね。早く少しでもおさっまってくれるといいけど”って一緒になって親身に考えてくれたら、それが一番の薬なんだよ。看護師の笑顔が患者にとって一番の薬なんだよ。それがわからなければ、看護師には向いてないよ。何で看護長を呼ぶ話になるのか、怒っているのは私なのに、なんで私があなたに怒られなきゃならないの!」と話した。「泣きながら、わかった、甘えていたのかもしれない。もう一度チャンスを下さい」と言ってきたから、私は手を差し出し握手を求めた。

お風呂介助の時に、主任が「注意しておいたよ。間違えて薬を飲んだ患者がいても、生きるの死ぬのの話じゃなければ、この病棟には、”モルヒネ”を服用している患者がいるんだ!ということをもっと意識して、すでに金庫からモルヒネを出しているんだから危険性もあるんだから、その場を誰かに任すとかして、患者を待たせたことは事実なんだから、誤ればいいだけのことでそんなに大問題になる話じゃないでしょ」ってね。


他にもたくさんのことがあったが、リハビリテーション病棟ということもあるのかもしれないが、ナースのほとんどが「見えない痛みに鈍感」。

しかし、麻酔科からも入院患者が入ってくるのだから、もう少し敏感になってもいいと思うが、痛みやしびれに対し、こんなに無知なのかと痛感した。

ただ退院間際に「今日は、辛そうな顔をしている。痛いんでしょ?」・・・「大丈夫」・・・「そんなことないでしょ、相当我慢しているんだろうから」と3年生ナースが言ってくれたことがとっても嬉しかった。わかってくれていた人がいたんだって。



Être continué


平昌オリンピックでフィギュアスケート男子ではワンツーの表彰台や、圧巻なスポーツが披露され日本人も依然と比較すると、表彰台が身近になってきたような気がする。生まれ変わったら、モーグルの選手になってみたいな!コブを次から次と越えて、スピードを競う。毎日騒がれているこのオリンピックも、あっという間に終わり、次はいよいよ、東京オリンピック。東京がオリンピック期間中、どういう風に変わり、どんな感じに華やかになるのか楽しみだ。



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erikumako


# by mp_erikumako | 2018-02-21 20:39 | 日記 | Comments(0)

こんにちは! erikumakoです(*^^)v


本題に入る前に今日は、いつもは、ちょっとした雑談だけど今日は、愚痴コーナー!許して!!むしゃくしゃ・イライラ・怒鳴りたくなることばかり。大きなことで最近起こったことが2回あった。

我が家は、集合住宅、敷地内での部外者のおかしな撮影は、禁止!インターフォンも撮影できるものは使えない。プライバシー侵害の保護らしい。しかし、まったく知らないお方が我が家の玄関前に来て、表札など表玄関を無断で撮影したそうだ。しかも「弁護士」という立派な立場のお方だ。私は悪事に手を染めたこともないし、訴えられていることもない。ある人から聞いたのだが、怒鳴り込んでいきないくらい頭にきた。弁護士の立場で、人権侵害だ!理由を言え!と。普通なら、ひと声かけて理由を言って、世帯主に許可をとってからだろう。虎ノ門方面のU弁護士らしいと分かっているけど。周囲からやめとけと言われているから、怒鳴り込まないけどね。ムカムカ…(#^ω^)


介添え人のほうを私がじっと見つめていると、そばにやって来た。私の耳元で「検定には、時速4Kmと6Kmがある。今やったのが、4Km。これは合格!もし、6Kmも受験したいのなら車いすの速さを時速6Kmにして検定を継続するって。最高時速4Kmで、もういいよっていうなら、ここで終わり。でも、また、車いすに慣れて時速6Kmにしたいってなったら、また、ここへきて検定に来なきゃならないってこと。もう4Kmは合格しているんだからダメ元で6Kmも受験したら?そうしないと、時速4Kmまでしか出ない電動車椅子しか作れないって。」と言われた。

時速4Kmが合格したと聞いても想像していたより感動が少なく「ふ~ん」って感じ。介添え人が言っていることも理解できたので、継続することにした。4Kmだとお”遅い”と感じていたが、6Kmにしたら、”颯爽と”って感じで、髪の毛がなびいているのを感じた。

学生たちをかき分けかき分け、工事後の凸凹に弾みながら、4Kmと同じコースを走った。試験官はじめみんなが必死に後からついてくるのを感じた。2周終わった。

終わってそのまま、建物の中に入り、部屋におさまり終了。


今度は、試験官と福祉事務の人がこそこそと話をしている。少しして、試験官が書類の束を片手に現れた。

結果は…「4Kmは安定していたけど、6Kmは”突っ走っている”感じで、少し不安があるから、6Kmも一応”合格”ってことにしておきますが、慣れてきてからにしてくださいね。」と言われた。

なんだかんだでコースを走るのに1時間くらいかかったし、ふ~っと、一気に疲れが出た。

その後、どんな車いすにするか、何が必要か、何を設置したほうがいいかなどを話し合い、今度は、そこで決めた内容が適切かどうか、月一回の審議会にかけてOKが出れば、ようやく“作る”作業に入れる。

なんと時間のかかることだろうか。でも、私の体に合った、私だけの車いすを作ってもらえる。

家のカーペット選びの時のような台帳から色なども選べるそうだ。そこで、私自身の中で思いついたことがあった。どうせ作るなら…と。洋服を選ぶように考えたりもした。が…

その反動で、あれだけナースにもドクターにも反抗してきたのに、とうとうこの日が来ちゃったんだ。

言い方は変だけど、私が障害者だから故に言える、「本物の身体障害者」になっちゃったと、何と表現してよいかわからない、悲しみというか、虚しいというか、ぽっかりと心に穴が開いた状態になり、帰りの車の中で放心状態でいた。


しかし、この先、今まで愛してきたものとのもっと悲しい別れ・決別があることに気が付いていなかった。


Être continué


最後も愚痴コーナーです。ごめんなさい。だって怒り心頭に加えて悔しさと虚しさでいっぱいなんだ。

ある人に…身近な人なんだが、その人は健康で大きな病気もしたことがない。他人に無関心な性格。メールでその人とある商品の値段についてメールのやり取りをしていた。私の左手の震えは酷くなってきていた。彼のメールには、合計金額と1,000円以上の価格にカンマがなかった。私にとって非常に見にくかった。遊びであれば何も言わなかったのだが、仕事上のことだったので、「カンマを入れてくれないかな?お客様もその方が見やすいし、金額だからカンマはつきものでしょう。お願いします。」と普通に話した。その反動がすごかった!「それは君の常識でしょ、手が不自由だからって、それは僕にはわからないし、単なる仕事の押し付けでしょ」ここでは伝えられないような勢いで言われた。「私の手が痛いのも痺れるのもあなたのせいじゃないものね」と余計なことを言ってごめんなさい。と言った。上下関係でいえば私が上だ。悲しいというより、怒るというより切なかった。むなしかった。どう生きていけばいいのかわからなくなった。

本当に愚痴の2倍で終わってしまいごめんなさい。



読んでくれてありがとう (^_-)-☆

erikumako



# by mp_erikumako | 2017-10-23 18:34 | 日記 | Comments(0)

こんにちは! erikumakoです(*^^)v


かなりの量の雨が降り、空梅雨の後のゲリラ秋雨のようで、日本の自然界もバランスが崩れてしまったように感じる。だから山の中に潜んで生活していた動物たちが人間の住む集落に下りてきて田畑を荒らす。動物たちが命を落とさざる得ない。雨・風・雷でも田畑が荒らされ、町ではけが人が出て、未来に向けての便利さが現在の状況を作ってしまったのだろう。きっと、田畑を荒らして網で捕まえられてしまった動物たちも同じように感じているのだと私は思う。



私もいろいろ知らないことばかりで勉強になったが、電動車いすを福祉で作っていただく場合、”検定”がある。検定まで4~5回くらい区内の福祉施設で練習をさせてもらった。(各自自体で制度が違うらしい。あくまでも東京都の私の住む区内の決まりである)練習をしながら、療法士がデジカメで撮影しながら、どんな形式にするか・ひじの高さは・体の支えは…など点検していた。

検定前最後の練習の時は、さすがに緊張してた。おまけに「2回目で受かった」なんて話を聞くと、自分は大丈夫か?この場所へ連れて来てもらうだけでも大変な思いを周囲の人にさせているのに1度で合格しなければ…プレッシャーを感じる。車の免許の時もそうだったが、私は”こう見えて”非常にプレッシャーに弱い。ドキドキ・バクバクである!

最後の練習を終えて「じゃぁ、精一杯頑張ってね。大丈夫!大丈夫!」と療法士から激励された。

しかし、検定まで10日以上あった気がする。その間に感覚を忘れてしまったら!などと、いいことは考えない。


いよいよ、検定日。天気良好。新宿内の学習院大学前の明治通り片側2車線を、横断歩道を青信号の間に渡り切れるか、周囲にぶつからないか、周囲に気を配っているかなどを見ているという。100メートルくらい離れた横断歩道2か所を2周する。残念ながら歩道は工事中、仮のアスファルトが座布団のようにボコボコしているところが多い。尚更ドキドキした。乗る電動車いすは、今まで練習では使ったことがないジョイスティック。握ることができないので、親指の付け根に挟んで操作するしかない。検定中は、試験官・介添え人・練習場で指導してくれた療法士・福祉事務所の人が付きそう。

横断歩道を渡るところからスタートする。”あの信号機が青になったら試験スタートだ” 介添え人は、私の顔がひきつっているのがわかったのだろう、「大丈夫」と口パクで言ってくれた。


さぁ、スタート。電源を入れてストッパーを解除し、左右を見て発信。のんびりしていたら4車線の道路を青信号の間に渡り切れない。時速4キロ。横断歩道を渡り切って左折。100メートル先の横断歩道まで直線。しかし、道路はボコボコ、大学生がのんびり3列で歩いている、たむろしている、スマフォにイヤフォンでマイペースの学生も多い。はしゃいでいていきなり飛び出してくる学生。細くなっている歩道でも私に気が付かないで数人でおしゃべりをしている学生。しばらく私はストップしていた。「すいません」という余裕なんてない!試験官が代わりに言ってくれた。次の横断歩道が来た。ちょうど青信号だったが私は、それを待ち次の青信号で行くことを選んだ。信号が変わり発進。無事に渡り切れ、100メートル直進。あと1周だ。状況は、1周目と変わりがなかった。一番の障害物は、大学生だった。


2周目が終わった時に試験官が何かを私に言った。雑踏で聞き取れなかった。11月も半ばすぎだったと思うが、汗はびっしょり、口の中はバサバサ。私は、試験官に「えっつ?何ですか?」と聞き返したが、意味がわからなかった。

介添え人がわかるように説明してくれた。頭の中まで舞い上がっていたのがわかっていたのだろう。

私はそれを聞いて、目をきょとんとして、初冬の風に吹かれていた…。



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数日前いつもの病院に診察で行った。私の姿を見かけると声をかけてくれるのだが、その日も同じように声をかけてくれた。彼とは昨年の夏に私が入院した時に同じ病棟だった。おっとりとしていていつも変わらぬ応対をしてくれた。そのころは、二の腕も筋肉が盛り上がり体格もがっちりしていた。車いすの生活だったので足は細かった。私が昨年退院してから、彼もほかの病院に転院したりして帰宅することはなかった。私は「なんの病気なんだろ?」と聞きたかったが、やはり聞きにくく不思議に思い続けていた。暫くの間合わなかったが、先週しばらくぶりに会った。がん患者さんがかぶる帽子をかぶりかなり痩せていた。何も聞けなかった。そして2週間ぶりくらいに数日前に会った。筋肉で盛りがっていた二の腕は陰りもなく、さらに痩せていた。放射線治療を続けているという。片手で車いすをしんどそうにこいできた。「右腕を骨折しちゃって!」と笑顔で言った。その理由として自分から放射線治療と言ってきた。「骨がもろくなっているみたい」。思い切って病名を聞いてみた。2年近い病院生活を送っているはずだから…「線維肉腫だって、胸にも首にも肩にも腕にも転移しちゃっているみたい」やっぱり、彼はひょうひょうと笑って答えた。放射線を当てる場所のマジック印の体。あちこちに転移をし、2年近く病院生活を送り、外見の変化…それでも、知り合ったころと変わらず、おっとりといつも笑顔でいる。痛さも麻痺も進行しているという。「グーパーがしにくくなっちゃった!」とあっけらかんと言う。彼を見習わなければならない…とかそういうのと違い、勿論それもあるけれど、そういう生き方もあるんだなと考えさせられた。



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erikumako


# by mp_erikumako | 2017-10-04 19:20 | 日記 | Comments(0)

こんにちは! erikumakoです(*^^)v

すっかり秋の気配で、夜になると秋の虫の声が、昼間になると夏の終わりを惜しむかのようなセミの大合唱。そんな自然の変化を切なく感じる。自然がなくなったといわれていても、草花の色合いや虫の音が日々の変化を教えてくれているような気がする。そして、そうやって進んでいる日々の時間の中に自分自身もいるのだなって。



自分自身人生最大の決心をした。大げさでもなく本当に「車いすに乗る」という選択は、私にとってそれほど大きな決意だった。

大きな決意をした以上全うしなければならない。車いすに乗る生活を送るということは、現在の「身体障害者2級」から「身体障害者1級」になることだ。かかりつけ医からも「もうそろそろ、考えた方がいいよ。君の”歩きたい”っていう気持ちはとてもよくわかるけど…」と、これまでにも言われていた。その医師の診察日に、身体障害者センターでの結果を報告した。そして「お願いいたします。」と申請書を手渡した。これまでのblogにも書いてきたが、泣いて、騒いで、もがいて、苦しんで、怒って…そんな状況下でも「歩く!」と叫び続けてきたが、身体障害者センターの医師は、非常に冷静沈着な医師で、これまで私の周りにはいなかった目線で私を説得し、語りかけるように”エネルギーの使い方”について話してきた。

1か月ほどして新しい「身体障害者1級」の手帳を手にした。申請書を書いてくれた医師に「1級の手帳が来ました」と告げた。医師は「もう、これ以上上はないよ」といった。身体障害者1級にもいろんな種類の病気での方がいらっしゃるのだろうが、まさか、自分が最上階の1級保持者になるとは予想もしなかった。悲しいとか泣きたいとか、そんな気持ちよりも不思議でたまらなかった。誰が予想しただろうか!


上腕から指先までの痛みとしびれが極度にひどいので、身体障害者センターで「電動車いす」と指示を受け、「公費で作るならば検定があるからちょうどあなたの住んでいる区には、練習するところがあるから検定日が決まるまで、そこで練習をしておいて」といわれた。その手続きをし、体育館のようなところで練習をした。車の教習と似た部分もあった。床に円や8の字にテープが貼ってあり、その線に沿って電動車いすを操作するようだ。練習を始める前に、自動車で例えるならば“ハンドル“部分をどんな形のものが私にあっているかを検討した。一般的なスティック状・掌を使って転がして操作するボール状・握るタイプのレバー型…私の手の動く範囲やしびれなどを考慮し、レバー型になった。普通なら、レバーの部分をしっかりと掴んで操作するのだが、私の場合は、1)握れない2)しびれが強く何かに”触れたくない”…ということで、ひじ掛けの幅を通常の1.5倍弱に広げ、肘をついたまま指先の爪側だけでレバー部分を操るようにするという結果になった。


いよいよ、初練習日。生まれて初めてあれほど嫌がった、毛嫌いしていた車いすに座った。そこに座った時の目線から見えた景色は今でも忘れられない。椅子に座っているわけでもない、立っているわけでもない、中途半端な高さの景色だった。正直…嫌な感触だった。

発進してからは、床のテープに沿ってゆっくり動きまわった。怖くはなかったが、やはり初めての体験だったので緊張した。しかし、ゴーカートの延長線のような感じもした。円や8の字のライン上を運転した。そこにいた療法士からも車の運転をしていた影響か「はじめてにしちゃ上手だね」といってくれた。ただ、バック走行が車とは反対のハンドルの切り方なので戸惑い、壁にぶつけたりもした。

これが私の初めての車いす運転初回の感想。乗っている間は遊園地に行ったような気分にもなれたような気もしたが、練習が終わって乗っていた車いすを眺めていると、何ともやるせない気持ちにもなった。「あ~これから、これと一緒に生活を共にしていくんだな」と。

そして忘れていたもう一つの大きな別れが私に待っていた…。



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数日前の朝テレビを見ていたら、サッカーの原口元気選手が難病に侵されてしまった少年のお見舞いに病室に行っている様子が放映されていた。少年は大好きな原口選手の訪問に驚き、喜び、照れていた。病室には原口選手のグッズがたくさん飾ってあった。長い闘病なのだろう。別れの時に、少年は「ありがとう、試合では必ずシュートを決めてね!」と言っていた。原口選手は、涙ながらに「うん…かならずシュートを決めるからね…」そのあとに言葉が続かない。「頑張ってね」「早く元気になってね」そんなことは言ってはいけないこと、言っても少年自身が辛くなるのがわかっているからだろう。テレビを通して原口選手を見ていて、この人もケガなどで苦しんだ経験が数多くあるんだろうなと感じた。だからこそ、その少年に安易な言葉がかけられず、戸惑ってしまったのだろう。私はサッカーにあまり興味は持っていなかったし、“原口元気“という名前も聞いたことがる…程度だったが、この選手の真のやさしさを感じた。



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erikumako


# by mp_erikumako | 2017-09-14 19:44 | 日記 | Comments(3)

こんにちは! erikumakoです(*^^)v

暦の上ではもう秋なのに、梅雨に舞い戻ったような天気が続き、晴れれば35度が当たり前のような天気。きっと、皆さんも体調を崩されている方が多いのでは…。水不足や農作物にも影響が出ちゃう。農家の方のニュースを見ると心が痛みます。

話は変わるけど、サングラスにちょっと前から興味を持ち、お財布と兼ねあい似合うのがあると、つい!買っちゃうんだ。

こないだもお財布を覗きながら、買っちゃいました~!a0335736_16044894.jpg










M病院で期待が大きかった分、ヘビーなボディーブローを受けた私は、医者不振になっていた。その日は、麻酔科も受診があったので、麻酔科医は、話を聞いてくれる方なので、私がボロボロ泣いていると「どうした?」と聞いてくれた。

「う~ん、何でそんな事を言ったのかな?」と頭を抱えていた。話を聞いてくれただけで十分だった。

もう、何も期待をする気にもならなかった。


頭を切り替えてどうせ私は、わけのわからない病気だし障害者。病気を治す…という前向きなことに手を貸してくれる医師がいないのなら、身体障害者ということを有利に考えようって。そう考えなおして、何気なく世田谷区のホームページを見ていたら「国手当」「東京都手当」というのを見つけた。世田谷区からの手当は既にいただいていた。医療費も1割負担でも1科で1か月の薬を処方してもらったら…、麻酔科でブロック注射をしてもらい、麻薬シールを処方してもらえば…1~2万円はかかる。それに往復のタクシー代。1回、病院に行くためにおよそ3万円のお金が必要になる。健常者時代の時のように給与ももらえない。病気の母を抱えて、母にお金の心配をさせないようにしながら生活をするためには、もうカツカツの限界の生活だった。

天からの恵みのように私は、その二つの手当を申請した。「国手当」は、担当医の診断書だけで審査された。「東京都手当」は、病院は全く関係なく、「都立身体障害者センター」で私自身を診察されることだった。その結果をそのセンターで協議し、審査結果が出るという過程だった。診察日を予約し当日、緊張しながら私は介護者と一緒に行った。

2010年に病気を発症したことから現在に至ることまで話をした。2~3時間かかった記憶だ。

そこで、最後に医師に言われたこと。当時、2本のロフストランドクラッチで、両膝下、両手首、両膝、体幹の装具をつけながら、10回に8回は転ぶ感じで歩いていた。距離も長く歩けない。それを「歩ける」といえるのだろうか…。


私の目の前の医師は、「絶対に車いすには乗りたくない!自分の歩くんだ!っていう気持ちもよくわかるけど、そこまでのエネルギーをもっと違う使い方をしてみたらどうかしら?そこまで歩くのに、ものすごいエネルギーを使い、転ぶことも多い。転ぶことが多いってことは、骨折など二次災害の危険も多い。それよりも、車いすに乗って、移動距離を伸ばして、これまでに使っていたたくさんのエネルギーを他に使って、もっと人生を楽しみなさい。それも悪くないよ」。

そういった考え方を聞いたのは、初めてだった。誰もが”危なっかしい”と感じる歩き方で、10メートル先に行くまでに一日の半分のエネルギーを使っていた気がする。

介護者もその医師の考え方に共感していた。私も「いつまでも意地を張り続けていても仕方がないかな…」と考え、申請をお願いした。「絶対に車いすは嫌!」と泣き叫ぶように拒絶してきたが、”エネルギーの使い方” ”人生の楽しみ方”をもう一度、考え直してみようと。


「東京都」手当が出るまでには、2~3か月かかるらしい。車いすも手動では無理なので、電動車いすを申請することにした。

考え方を変えたら、少し気分が変わった気がした。



Être continué


最近、「終活」っていうわけじゃないけど、お手伝いしてくれている人と不用品を廃棄している。2年間着なかったら、もう着ない!その精神でごみの日の前日は、押し入れの中やパイプハンガーにかかっている洋服を45リットルのビニールに押し込めている。洋服だけじゃない、雑誌や「なんでこんなの買ったのかな?」と思う雑貨類もある。でも、まだ、母の下着や普段着は、捨てられない…。



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erikumako


# by mp_erikumako | 2017-08-16 17:17 | Comments(2)