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erikumakoの闘病記《走り屋との別れとJust to me Pink》-2-

非常に長いことご無沙汰していました。
前回のアップ後、いろいろなことがあった。入院やら、体調がよくなくてかなり荒れていた私。
一番近くにいてくれる人が、「もう、私の手には負えないよ」・・・随分長いこと私と一緒に戦ってきてくれて、一緒に悩んでくれて、一緒に泣いてくれて、私を一番励ましてくれていた人だった。その人から、そう言われてしまうほどの荒れ方だった。
でも、私を言い聞かせて、主治医とも話をしてくれて、包丁を出して自分の手を切り落とそうとしたときは、私の手首が良くテレビなどで見る「よしかわ線」になるほどの力で押さえつけて防いでくれた。治験治療を受けるための4週間の入院をしてようやく私自身も笑顔を取り戻しつつ、退院した今も暖かく見守ってくれて、普段の生活に戻ってこれた。その人には感謝の気持ちしかない。ありがとう・・・。



「これに乗っている君の隣では歩きたくないな!」と主治医にまず最初に言われた。
私の第二の”足”が出来上がってきた。ピカピカの見たこともないピンクの電動車いす。こんなものに乗りたくない!と叫び続け、ある意味仕方なく作った車いす。だから、誰も乗っていないような、自分の大好きなピンク色ばっかりにした車いす。
真新しいものを見れば、車いすが「いや!」とは言いつつもやっぱり新しいものには魅了される。
車いすでの初めての入院。少し照れ臭かった。気分的には複雑だった。
ピンク色の車いすを乗って、院内を走り回る・・・第二の足で。楽ではあったが、気持ちはやっぱり複雑。4週間、入院して思ってもみなかったことを感じた。それは、当たり前かもしれないけれど、私自身が行方不明にならなかったこと。遠くのほうからでも”私”ってことが誰にでもわかってしまう。そして、関わったことのないナースやスタッフにも名前を憶えられてたこと。すれ違いざまに声をかけられ、会釈をされる。戸惑うことも少なくなかった。
画像のところにアップしたのが、私の第二の足だ。今は、公道を走っていても振り返る人が多く、面白いことに、2歳くらいの子供が「あれにのりた~い!」と母親にせがんでいる!

もう、だいぶ慣れてきたが、あれこれ文句を言っていても仕方がない。身体障害者センターの先生が言ったように、このピンクマイカーに乗りながら、パワーを蓄えリハビリを重ね、笑顔でいられる時間を少しでも多く作ることに専念する・・・そう、気持ちを切り替えた。
前を向いて進むしかない!!


Être continué


私の母がなくなる11日前に、私の弟分が(母も息子のように可愛がっていた)「姉さんの骨は俺が拾いますよ」と言ってくれたその彼のお母さんが平成30年の暮れに亡くなった。その時彼は、仕事で台湾にいた。懐石料理を台湾の食材を使ってアレンジするという催しを現地の高級ホテルで行っていた。すでにお父さんは他界され、弟さんから連絡が来たのだろう。しかし、彼は帰国できない。このほかにも日本からの高級輸入車のCM撮影の仕事もあった。その仕事もお客様の前で笑っていたければならない。男気の強い彼ではあったが心の優しい甘えん坊風のところもあった。それは私の母に対しても見受けられた。

車のCMの動画をメールで送ってくれた。満面の笑みだった。私は泣きながらその動画を見た。

辛かっただろ。一人になった時には涙が止まらなかっただろ。

長男であるから、彼が帰国するまでの1週間ちょっとの間、弟さんがお母さんを見守り兄さんの帰国を待った。お母さんに会えた時には、我を忘れて泣いただろう。そして、喪主として立派に勤めあげたのだろう。



読んでくれてありがとう (^_-)-☆

erikumako


# by mp_erikumako | 2019-03-14 00:00 | 日記

erikumakoの闘病記《走り屋との別れとJust to me Pink》-1-

約半年ぶりのご無沙汰でした。わずかな方々だけど、このblogを読んでくれている方々、ごめんなさい。

学生時代からの友人で、私の体ことなどよく心配してくれるSちゃんからも数日前にメールをくれて、「ブログも更新していないけど調子悪い?」と。

Sちゃんは、勿論もともと優しい人柄だけど、皮膚病で普通なら触りたくもない仔猫が道端にうずくまっていると、家に連れ帰り自費で病院に連れていき、最後はSちゃん家の家族にしてしまう。大雨の中を歩いているときに、金魚が流されて、バタバタしていると救って家まで連れていき、やっぱりSちゃん家の家族にしてしまう。この金魚の名前は、“”きんちゃん“”。最近、Sちゃんのお兄様ががんの病に・・・。一時は、危なかったそうだが、検査結果は、良性で体力も回復されてきたらしい。金魚のきんちゃんは、確かSちゃんが救ってきてから数年は経つと記憶するが、そのきんちゃんが、お兄様が病魔と闘っているときに、お星さまになってしまったらしい。Sちゃんも言っていたが、きっとお兄様の身代わりになってくれたのだろう・・・と。土の中に眠らせてあげ、お線香を供えた写真をメールに添付してくれた。「Sちゃんママ、ありがとう。幸せだったよ」きっと、きんちゃんもそう感じているだろう。Sちゃん自身も、これからの人生、生き死にの境目にいる生き物たちに優しく接しているのだから、幸せな時間を過ごすことができるだろ。

何事にも「当たり前のように」何に対しても優しく接することができる人。嫌味でもなく、見返りを期待するわけでもなく。私自身もそうでありたいと思う。子供のころに祖母が「あの人は何に対しても親切にしたから”畳の上で・・・”」と言っていたが、Sちゃんこそそうであろう。



我が家は母子家庭だったため、できるだけ母の負担を少なくしようと思い、私は働き出してから自動車の免許を取得した。1台を長期間乗っていたということもありこれまでに、5台乗り換えた。勿論、私の収入で購入するのだから、国産車ではあるが、全ていわゆる「スポーツカー」と呼ばれる車高の低い2ドアの車。ちょっと自慢しちゃうと、バックからの車庫入れは、99.9%の割合で1発で入庫させた。どんな駐車場でもね!
だいたい、車の色は赤!車の中もすべて赤にして、男性でも乗りたくなるような車だったと思う。勿論、大人ですから交通法規も守り、車自体にもステッカーを貼ったり、ピッカピカさせたり、けたたましい音が出るようなことはしなかった。
しかし、車いすとの生活が決まった時、小さい折り畳みの車いすならいざ知らず、電動車いすなので、多少折りたためたとしても、スポーツカーのトランクに入る訳がなく、否が応でもスポーツカーとは決別しなければならなかった。逆に電動車いすがそのままの状態で収納できる「福祉車両」に乗り換える必要があった。
信号待ちをしているときに、隣の車線に停車しているドライバーが、こちらをのぞき込んで、「女が運転しているんだ」。駐車するときに、そばで見ているおじさま方やお兄様方が、好奇の目で見ている中で一回で、駐車場のラインに沿って真っすぐ「ななめにならず」止めると、「へぇ~!女でもやるじゃん!」という視線を感じるのがたまらなく刺激的だった。
しかし、車いすに乗らなければならない=愛車との別れ、というところまで考えが及ばなかった。車いすの業者さんとの打ち合わせで、自分の車いすの青写真が出来上がって、そこで人に言われて初めて気が付いた。車いすをそのままの状態で乗せられる福祉車両と2台の車を維持できるほど経済的余裕もない。ちょうどその時期にお台場で、国際医療機器展示会という大きな展示会がおよ押される予定になっていた。昨年も行き、福祉車両や付属するための器具や、改造モデルなどたくさん出品されていたので、まずはそれを見てから車をどおするか考えようということになった。
しかし、結果は、どれもダメだった。今の愛車を見切り、福祉車両に移行するしかなかった。
車いすを作ってくれた業者の方の勧めで、某有名メーカーのボックス車が元から福祉車両になっているからいいよ…というので、お店に行き見に行ってきた。まず、私を愕然とさせたのは、フォルムでもなく内装でもない、「軽車両」ということだった。軽車両を見下しているわけではない。ただ、今までの私の車に対する気持ちからすると、どうしても「黄色いナンバー」に抵抗があった。
一般車では、福祉車両にすると、かなりの金額になる。経済的に無理!でも、逆に1つだけ私の心を動かす点がいつだけあった。
たまたま、ニューリアル記念で、特別仕様車として「桜パール」色があったことだった。ディーラーが言うには、今月中の販売までの特別色ですだとか。でも、車のつくりから、フォルム、スピード感、それにやっぱり、黄色いナンバー。おまけに「品川」から「世田谷」ナンバーに代わってします。世田谷にわざわざ変えた人がいると結構いると聞くが、私はやっぱり品川!
しかし、よーーく考えて直してみると、もう自分は「身体障害者1級」。車のフォルムがどうの、ナンバーがどうのこうのと言っている場合か!おまけに経済的にゆとりがある訳じゃない。車いすに特化した車を選択するべき・・・と考えなおし、頭の中をリセットした。
結局、最初から福祉車両として作られている軽自動車のボックスカーにした。おそらく街中ではほとんど見かけない「桜パール」色が今なら選べる。本当にきれいなピンク色。ディズニーのトイストーリーに出てくるような可愛らしい車。・・・と考えるようにした。
どう?可愛らしいでしょう?
自分の体を考え、これから多くの人に迷惑をかけ、お世話になるのだし、根本的に考え方を変えなければならない。抵抗を感じていた黄色いナンバープレートも、ちょこっと贅沢をしてオプションでピンクゴールドの純正のフレームをつけたら、結構豪華に見えた!素敵なピンクでしょ!
可愛い路線で車内もいじっています。
今では、結構というか、かなり気に入っています。この車にして1年弱だけど、まだ、この桜パールに出会っていません。この桜パールにはひとめぼれでした!(^^)!
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まだまだ、私のだ~い好きなPINK色ともっともっと高級車との出会いはあるんですよ~。
へへっつ(-_-;)


Être continué


ここのところの猛暑のためか、食欲が珍しくなくてアイスばかり食べています。固形物はう~~~ん。

昔ながらのあずきバーがお気に入り。暑さに対しては皆さんほど感じない。熱射病対策で、見守りコールというのがエアコンについていて、室温が28度以上になると、「お部屋の温度が高くなっています」と教えてくれる。外に出ると、暑さは、幸いながら皆さんほど感じないけど、陽ざしが痛くてたまらない。差し込むように陽ざしがビリビリしているところへ、差し込んでくる。そのため、引きこもり中!だから、尚更、あずきバーと仲良しこよしになってしまう。我が家の冷凍庫には、必ずあずきバーが5本以上は入っている。5本を切ると心細くなってしまうので、セブンイレブンの配達便かアマゾンプライムナウで「ホッチ」っとしてしまう。おいしいと思いませんか?やっぱり、ロングセラー商品!!


読んでくれてありがとう (^_-)-☆

erikumako



# by mp_erikumako | 2018-07-18 19:19 | 日記

erikumakoの闘病記《番外編・・・見えない痛み》

こんにちは! erikumakoです(*^^)v


このblogを書くのは、約4か月ぶり。
昨年の10月24日から60日間、入院していました。クリスマス前に退院して、痛みやしびれがひどいのは、相変わらずでしたが、気持ちの面でも、パソコンに向かう気にもなれず、入院前には、痛くてもしていたこともやる気が起きない。特にダラダラとした生活をしていたわけでもないけれど、「何かをしよう!」という気持ちがわいてこない。だから、痛みやしびれと真正面から向き合ってしまうので、尚更、体が言うことを聞かずに、引きこもりのような状態になってしまっていた。
最近になってようやく、パソコンを開いてみたり、部屋の片づけなどできる範囲で「やんなきゃ!」と感じ始めるようになった。

約4か月ぶりにblogを更新するにあたり、引き続き「闘病記」について書こうかなとも思ったが、10月24日から60日間の入院でつくづく実感したことを聞いてほしいと思い、今回は「番外編」として、その60日間についての私の感じたことを聞いてほしい。こういうことって、どこのリハビリ病院でも同じなのか?と、問いたいから・・・。


院長交代の影響か、よくある病院の人事異動で私の主治医は、脳神経外科の医師だったが、まぁ、主治医のような先生ではあったが、リハビリテーション科の医師に引き継がれた。引き継がれてから初めての入院。私にはもう一人、麻酔科のM医師も主治医のような存在だった。前主治医の人事騒動(後日記載予定)もあり、2か月おきくらいに入退院を繰り返していたのに前回の退院から1年以上経過していた。外来でブロック注射などしていたものの、痛みとしびれが増すばかりの1年だった。私には ”限界”が見えないから、どこまで階段を上り続けていくんだ!そんな状態だった。
主治医が変わり、新しい主治医O医師からも、麻酔科のM医師からも、早々に入院の日取りを決めようという話が出た。
病棟も脳神経外科病棟からリハビリテーション病棟に変わる。数年前、脳神経外科の都合でリハビリテーション病棟に2~3回入院したことがあった。その時の印象は、病棟全体が明るい雰囲気でナースもナースとしての優しさをもち、誰が担当になってもいいな!と感じるほどだった。今回もそのつもりで入院生活をスタートさせた。

部屋に案内され、ナースステーションの隣・・・これは、車いすになりその他のこともその他のことも数年前とは、まったく自分自身の状態が変化しているから仕方がないと思った。ベッドに貼ってある担当看護師の名前を見たら、脳神経外科病棟で主任をしていた人だった。ほかの患者さんは、みんな“怖いと嫌っていたが、なぜか私とは気が合っていた人だったので安心した。”主任”というポストにいた人ということも私を安心させた。
しかし、入院当日は、(実は、それ以降もだったが・・・)残念なことに、その主任の元で勉強中の2年生ナースだった。検温だの問診だのお決まりのことをしている中で、よく言われる「痛みの段階」を聞かれた。前の病院も、脳神経外科病棟でも、1~5で、「5」は、泣き叫ぶほど、死んでしまいたいほどの痛みのレベルとナースは、判断していた。私自身も仕事上、そう認識していた。そういった意味で「5」は、数多く経験していたので、聞かれた時点の痛みの度合いは・・・「2」と答えた。それを聞いた2年生ナースFさんは、「あ~じゃぁ、あんまり痛くないんだ!」と言った。私は、唖然とした。ここで何か言わなければ、私は、”そんなに痛みのない人”にされてしまう。「だって、嫌というほど、”痛い”と言えないほどの苦痛を何度も経験しているから、それと比較したら、今は2くらい。だって、5は、死にたくなるような下見のことでしょ?」と聞き返した。ナースFは、首を傾げていた。

入院して二日目の晩、私に褥瘡ができていたので、体位変換で消灯の22時から2時間おきに、ナースが三角枕を左右入れ替えに来る。この病棟は、3交代制で8時半~16時半、16時半~午前零時、午前零時~前日の日勤のナースに戻るというシフトだった。2交代目・3交代目は、ナースが2人になる。入院して早々にいや~な感じのナースが担当になった。常に上から目線で患者への思いやりを全く感じなかった。そのナースOさんが、午前2時の体位変換に来た。私の左腕を握りしめ、持ち上げるようにした。「痛い!やめて!」思わず私は、叫んだ。しかし、握りしめられた左腕は放されることもなく、「ほら、向きを変えて!」といわれた。よろめきながら、必死にベッドの柵を手首に引っ掛けるようにして、起き上がり掴まれている左腕を払った。それこそ「5」の痛みとしびれ。ベッドの柵にもたれかかりながら、言葉も出ずにうなり声だけで固まっていた。そのうちにベッドからも落ちそうになった。そのあとすぐに浴びせられた言葉は「何がしたいのよ!車いすに移動したいの?何しているのよ!も~面倒くさいな~」だった。ヘルパーの男性もOさんと一緒に来ていたので、その人が、ベッドから落ちそうになった私を支えて、車いすに移動させてくれた。そして2人は去っていった。私を車いすに乗せたままどうするつもりだったのかわからないが、私はその場にいることも嫌で、部屋を出て、救急外来出入り口から外へ出た。外の空気が吸いたかった。外に出るには、守衛室の前を通らなければならない。守衛さんとは親しくなってはいたが、私の様子を変に感じたのか、出るときには午前2時過ぎという時間にもかかわらず何も言わなかった。部屋にいないことを逆手にとって、そのナースに探されあれこれ言われるのが嫌だったので、10分くらいして院内に戻った。その時に守衛さんが、「どうした?」。
一通りのことをざっくり話した。「痛いのはつらいよね。でも、その辛さをわかってくれないのは、もっと辛いよね。まだ、入院が始まったばかりだけど、負けないで。辛いときにはここに話に来てもいいから」と言ってくれた。その守衛さんの言葉が、とても暖かく感じ、この言葉をナースが言わなきゃダメなんでしょ!と、強く感じた。

ある朝の朝食後、薬が待てど暮らせど来ない。その日に限って体中が痛い。とにかく痛い。夜勤のナースにとって朝食後が一番多忙なことも知っていた。

迷いに迷った挙句、ナースコールをした。 看護助手が来た。「あら~!まだ来てないの?言っておくね」といいながら、足早に去っていった。しかし、待てど暮らせど来ない。再度、コールした。15分以上してようやく、2年生ナースFが来た。入口にふてくされて立っていた。私は、痛いから、「あ~やっと来てくれた!待っていたよ」と、安心した気持ちで言った。薬をカップにあけてくれるのだが、だんまりで面倒くさそうな手つきだった。体が痛いこともあったが、さすがにイラっとしてきて「そんな、黙っていることはないじゃないですか?痛くて仕方なくどうしようもなかった、患者の立場にもなってみてよ!”ごめんね~遅くなっちゃって”ってくらい、言ってくれてもいいんじゃないの?”と、言ってしまった。

「仕方ないでしょ!看護師が足らないのよ」続けて、薬が乗っているワゴンを指さしながら”こんだけ、薬を待っている人がいるのよ。あなたが最優先じゃないの!」私の部屋は4人部屋だが、みんな痴呆症の患者さん。大声でそう、一気にまくし立ててきた。呆気にとられたが、「看護師不足は、今ここでの問題に関係ないでしょ?」といったら、「ほかの部屋で間違えて患者さんが違う薬を飲んでしまって、副作用は大丈夫かとか先生や薬剤師と話し合っていたのよ!も~看護長を呼んでくる!”・・・おいおい、何があったか知らないが、看護長をわざわざ呼んでくる話じゃないだろう!

私は、一方的なことを看護長に言われても困るので後を追った。看護長は、まだ文句の言い足りないFに対し、黙りなさい!というように、抑圧していた。謝りなさいと、Fに言い、「すみませんでした」と、口先だけの謝罪に私には聞こえたが、事を大きくしたくないし、明日には主任が出勤してくるから、そっちに直接言った方がいいと思った。

翌日になり、主任に「昨日のこと、聞いた?」と言ったら、本当かどうか不明だが「昨日のことって?何かあったの?」と答えた。一通り話、主任は仕事に戻ったがそこにFがそばに来た。「まだ怒っているの?」と。呆れかえってしまった。「主任に何も話していないじゃない」「だって、恥ずかしいから」・・・バカ言え!心の中でそう思った。「あなたは、私より若いし病的に痛みやしびれもないしわからないのも仕方がないけど、歳を重ねていく中で、そういったものに悩まされ魘されたときに、”あ~あの患者さんは、こんなに辛かったんだ”って思い出してくれたら嬉しいよ。7年も8年もこんな生活を送り、どんどん悪くなる一方。痛くてたまらない、でも私には、頓服っていうものがないんだよ。でもね、”痛いのか、辛いね。早く少しでもおさっまってくれるといいけど”って一緒になって親身に考えてくれたら、それが一番の薬なんだよ。看護師の笑顔が患者にとって一番の薬なんだよ。それがわからなければ、看護師には向いてないよ。何で看護長を呼ぶ話になるのか、怒っているのは私なのに、なんで私があなたに怒られなきゃならないの!」と話した。「泣きながら、わかった、甘えていたのかもしれない。もう一度チャンスを下さい」と言ってきたから、私は手を差し出し握手を求めた。

お風呂介助の時に、主任が「注意しておいたよ。間違えて薬を飲んだ患者がいても、生きるの死ぬのの話じゃなければ、この病棟には、”モルヒネ”を服用している患者がいるんだ!ということをもっと意識して、すでに金庫からモルヒネを出しているんだから危険性もあるんだから、その場を誰かに任すとかして、患者を待たせたことは事実なんだから、誤ればいいだけのことでそんなに大問題になる話じゃないでしょ」ってね。


他にもたくさんのことがあったが、リハビリテーション病棟ということもあるのかもしれないが、ナースのほとんどが「見えない痛みに鈍感」。

しかし、麻酔科からも入院患者が入ってくるのだから、もう少し敏感になってもいいと思うが、痛みやしびれに対し、こんなに無知なのかと痛感した。

ただ退院間際に「今日は、辛そうな顔をしている。痛いんでしょ?」・・・「大丈夫」・・・「そんなことないでしょ、相当我慢しているんだろうから」と3年生ナースが言ってくれたことがとっても嬉しかった。わかってくれていた人がいたんだって。



Être continué


平昌オリンピックでフィギュアスケート男子ではワンツーの表彰台や、圧巻なスポーツが披露され日本人も依然と比較すると、表彰台が身近になってきたような気がする。生まれ変わったら、モーグルの選手になってみたいな!コブを次から次と越えて、スピードを競う。毎日騒がれているこのオリンピックも、あっという間に終わり、次はいよいよ、東京オリンピック。東京がオリンピック期間中、どういう風に変わり、どんな感じに華やかになるのか楽しみだ。



読んでくれてありがとう (^_-)-☆

erikumako


# by mp_erikumako | 2018-02-21 20:39 | 日記